2017年04月

本は言葉の採集です。

僕にとって読書というものは、
言葉の採集の時間でもあります。
山菜を採りに山に出かけるように
言葉を採りに本に出かける。
そんな心持ちで本を開くことがある。

カリカチュア、位相、居丈高、
沈潜、欣快、たまゆら、吻合…

知らない言葉を見つけると、
頭の中の言葉のかごに摘んでいきます。

使える言葉が増えたって、
たいしていいことはありません。
採集した言葉を会話で
使うことは、そうありません。

でも、なんとなく、
ちょっといい大人に
変化していけるような気がします。

山という、自然の街。

山に入るとすれ違う生き物が、
人間から多種多様な生命群へと変わる。
ぼくは恥ずかしながら、
花の名前とか、虫の名前とか、鳥の名前とか、
木の名前とか、草の名前とか、詳しくわからないので、
彼らの名前をひとつひとつ挙げて
紹介するようなことはできないけれど、
それでもたくさんの生きものが、
生きていることはわかる。
山は、いろんな種が混在しているのだ。

そこに行くと感じるのですが、
ぼくは、人がたくさんいるところより、
生きものがたくさんいるところの方が
どうやら好きみたいです。
明確な理由はわからないけれど、
心も体もそっちを求めている。

だから、とくだん登山が
好きなわけではありませんが
山という自然の街がけっこう好きで、
週末は、そこに出かることもしばしば。

冬の後ろ姿が見えなくなったいま、
やっと山へ足を運びに行ける季節がやってきました。

今週末は奥高尾へ。
東京の街の桜は散ってしまいましたが、
自然の街の桜はこれからです。

春の朝。

朝陽が桜を煌煌と染めあげながらのぼりだすと、
光に当てられた花が彩りはじめる。
花々は朝の街の静けさを楽しみ、
春の鳥は枝にとまり口ずさんでいる。
雲は虚空の果てに流れ出し、
建造物の間を風が吹き抜けて、
ぼくを酔いの彼方に連れていく。
なんて気持ちのいい朝なんだろう。
夏にも、秋にも、冬にもない、瑞々しい朝が春にはある。

春になると胸が早鐘を打ちはじめるのは、
決して冬の終わりが来たからだけではない。
こういう朝があるからだ。

桜が散ると、人も散っていく。

目黒川沿いが通勤路なので、
朝も夜も、この道を通る生活をしているのですが、
桜が引き寄せる磁力というものは強力で
いま、とくに夜は、連日、
縁日のようなにぎわいを見せています。
当然、道は人であふれ、
家にたどり着くまで、
ふだんの倍以上、時間はかかります。

それが別に嫌だというわけじゃなく、
むしろ毎日、お祭りの空気を味わえて
毎年楽しみにしている帰り道です。

ただ、桜が散るとそれまでのにぎわいは
幻だったように人も散っていきます。
それがけっこう淋しくて。
あと1週間くらいは、散らないでいてほしいなあ。

3月31日も大掃除の日だ。

去年、やり残したことの一つが大掃除。
どうも年末は浮かれポンチになっていて、
しかも実家に帰ったりすると、
なかなか大掃除することができなくて、
ぼくの部屋は相変わらず去年のまま。
キレイにリセットすることができていない。

今年に入って、大掃除しなきゃと思っていても、
結局、床に落ちてるゴミをサーっとコロコロする程度。
いらないものを処分したり、散らかった状況を整理したり、
窓を拭いたり、浴室をピカピカに磨いたり、
いわゆる大掃除のようなことはしていない。

で、これはやっぱり大掃除の気分を
自分の中で醸成しないといけないなあと悩んでいたときに、
3月31日は、12月31日と
ちょっと似ていると思ったんですね。
3月31日も一年のさいごという気分がちょっとある。
であるなら、この日も、大掃除の日であってもいい。

ただ、今年は平日なので、
今日と明日の、この土日を
ぼくにとっての大掃除の日としよう。
そう決めていた週末がやってきました。
さて、どこまで片付くかしらん。