2016年10月

一生ものこそ、たからもの。

最近、思う。一生ものこそ、宝物だと。
何世代にも渡って左団扇で暮らすことのできる財宝や、
世界でいちばん価値の高い宝石、ピカソの未発表の絵画のような
いわゆる宝物と呼ばれるものだけが宝物ではないのである。

一生を共にしたい財布であったり、
一生を共にしたい靴であったり、
一生を共にしたいペンであったり、
そういうものだって宝物だ。

だから、日常は、とくに休日は、
その宝物を見つける旅でもある。
ふと入ったお店で素敵な靴との出会いがあり、
宝物を見つけた嬉しさがこみ上げる。
そういう冒険のおもしろさが買い物にもある。

秋を知らせてくれるのは、だれ。

冬が突然目の前にやってきたように
急に寒さを帯びはじめ、そうかと思えば、
夏が引き返してきたような暑い日に舞い戻り、
いったい秋という季節はどこに隠れているのでしょうか。

暑くもなく寒くもなく、頬に当たる風はきもちいい。
薄手のシャツとジャケットをはおり、
軽やかな足取りでどこへでもいける。
こんな日が一年中つづけばいのにな、
と思う季節がやっぱり秋ではないかと思うですが。

ただ、わたくしが気づかないだけで、
秋の花であったり、秋の虫であったり、
秋の雲であったり、外の世界のいたるところから、
もう秋ですよ、とサインを送ってくれています。
何よりもわかりやすいのは服屋さん。
夏の服は跡形もなく消え去り、
もこもことしたウールや温かそうな素材が店内を飾り、
はっきりと秋の到来を教えてくれます。

秋を教えてくれるのは、
秋の空気だけではないのですね。

急がば、休め。

気分というのは侮れない。
こいつ次第で仕事のはかどり具合はけっこう違う。
気分に乗れると高速道路を走るように
すいすいなめらかに物事は片づいてゆきます。
ところが、気分に乗れないと、
渋滞に巻き込まれたように一向に進まない。
一時間たっても、二時間たっても、
ほとんど状況は変化しない。
時計の針だけ淡々と進んでいる。

そういう時こそ、気分の転換。
トイレに行くでもよし、
コーヒーを淹れるでもよし、
外の空気を吸うでもよし。
気分の転換は、気分のリセットです。
渋滞の状態が瞬間的に解消されます。

もんもんと机にかじりついて
うんうんと頭を抱えて考えつづけるより、
休み休みの方が仕事ははかどる。
歩きつづけるより、
時々止まる方が早く進むことがある。

夏の独唱。

九月のおわりかけに
木立からセミの鳴く声が聞こえた。
いつもは合唱で聞こえてくる鳴き声も、
このときは独唱だった。

そのひとりきりのセミは、
強く高く大きくおもいきり鳴いていた。
ひとりだけの世界を謳歌しているように。
あるいは、世界に自分しかいないことを嘆くように。

ふだんは、うるさいと思ってしまう鳴き声も、
このときばかりは切ない気持ちが湧いてきた。
夏のおわりは、いつもしんみりする。

お口無沙汰病。

手持ち無沙汰という言葉がある。
することがなくて間が持たない時に使う言葉である。
これと似たような言葉で口無沙汰もあると思う。
何か口に入れておかないと間が持たない、という意味だ。
まさに私は重度の口無沙汰病である。

食事以外では口にものを入れないし、
作業中は無口であることが多いから、
口が暇である時はしょっちゅうある。
そういう時、ついつい、飴なりガムなりをつまんでしまう。
口の中の空っぽが寂しいのだ。
絶えまなく舐めたり噛んだりしているわけで、
私の場合、口は目よりも手よりも働いているかもしれない。
ナメナメ、くちゃくちゃ。ナメナメ、くちゃくちゃ。

ときどき、こりゃだらしがない。と思って、
口を真一文字にキュッと締めて、
武士のような面構えで、
パソコンやノートの前にのぞんでみる。

しかし、いつの間にか、無意識のうちに、
口の中に固形物や軟体物が紛れ込んでいる。
ナメナメ、くちゃくちゃ。ナメナメ、くちゃくちゃ。
もはや癖というより、中毒である。
なんとも意志の弱さを痛感させられる。

私は、時に、しわだらけの服を着たり、
時に、汚れのついた靴を履いたり、
汚らしい格好をするときがあるけれど、
いちばん汚いのは、お口かもしれない。

お口無沙汰病。
かかると、下品になります。
イシが治してくれるかもしれません。