2012年03月

地味なモノたち

スカイツリーや、東京タワー、
六本木ヒルズや、レインボーブリッジといった
華やかな存在が
人を呼び、街を活性化させる。

一方、彼らのお膝元にある
ガードレールとか、歩道橋とか、
街灯、横断歩道、エスカレーター…は、
スカイツリーや東京タワーのように
人々からパシャパシャ撮られるような
華やかな存在ではない。

でも、たとえば、ガードレールは、
その場で何年間も
人々から危険を守っている。

歩道橋は、たくさんの人に
踏み倒されながらも
多くの人を運んでいたりする。

街を活性化させる力はないけれど
街を支えているのは、彼らだよなあ。

環境がちがう自分をつくる

たとえばの話です。
自分のクローンを4人つくって
一人はアフリカで生活させ
一人はドイツに、一人はアメリカに
一人は日本に生活させる。
どれも同じ山田太郎という人間でも
性格とか体型とか能力は
それぞれが異なる成長を遂げそうな気がします。
10年過ごして、各地の山田太郎が一同に介したら、
性格も、体型も、能力も、好みも、
4人とも全然ちがって、みんな別人にみえそうです。

自分を変えたいと思っても
簡単に変えられないけども
環境を変えると自分は変わる
と改めて思ったのでした。

同時に環境を変えなくても
自分を変えられる人はすごい
とも思いました。

レトルト

昔から手料理は
愛情表現の一部でした。

たしかにそうだと思う。
とはいえ、レトルトや惣菜を買うと
愛情が足りないと思われるのは
いかがなものか。

そもそもなんで、
料理を作ることが
愛情表現なんだろう。

動物の世界では、
親が子にえさをとって与える。
なるほどこれは確かに
親の愛情といえそうだ。
親がえさを与えなければ
子は死んでしまう。

料理はつくることではなく、
食べさせることに愛がある。
こう考えれば、
レトルトや惣菜だって
料理を手作りでこさえることと
同じ価値がある。
そういってもいいのではないか。

話は変わるが、先日、
レトルトカレーを二時間煮込んだ
という人の話を聞いた。

これは、手作りか。

人がいなくても水が流れることがあります。

トイレの小便器に、そう書いてあったのです。
しかし、この文字を読むときは、
読んでいる人が「いる」わけで。

つまり、まだ用を済ませていないのに
水が流れたときのために
書かれているのでしょうか。

自動車免許の試験で、

誰も見ていなければ信号無視してよい。
○ or ×

という問題があったのを思い出しました。
世界にじぶんひとりしかいなければ、
信号機は必要ない。
つまり、無視してもよいのではないか。
そう思ったのを思い出しました。

10円玉の旅。

両国に住む高校生が
蒲田の牛丼屋で
メシを食ってお金を払う。

ぼくがその牛丼屋さんに行って
20円のお釣りをもらう。

次の日、銀座のコンビニで
ガムを買い、10円玉を渡す。

銀座を観光中の福岡の人が
そのコンビニで買い物をし、
ぼくが持っていた10円玉を手にする。

福岡に帰ったその人が
博多のレストランでお金を払う…。

10円玉は、
ぼくより旅をして
ぼくより多くの人と出会う。

あのサッカー選手や、大女優にも
会っているかもしれない。

看板とか、信号とか、
基本的に「モノ」って
その場にずっと居座ってて
他の世界が見れなくて
かわいそうだなあと
思っていたけど
硬貨や紙幣はそうじゃない。
人間より自由に旅をしている気がして
うらやましく思いました。