2012年01月

ぼくの街の本屋は、ぼくの書斎です。

本が多い、そして捨てられない。
ドストエフスキーとか、カミュとか、
本棚には並んでいるのだが、
この1年間読んでない。
いや、ここ5年間読んでない。
いや、買ってから読んでない。
でも、捨てられない。

本を捨てると、
自分の可能性も捨ててしまう気がする。
小説の中には、無数の言葉が眠っている。
その言葉と出会えた自分を捨てる。
その勇気がぼくには、ない。

何かのきっかけで読みたくなったら
どーすんだよ?という気持ちもある。
本はたまっていく一方だ。

この状況をなんとかするために知恵をしぼった。

この本、本屋さんにあずけられないか。
また読みたくなったら、定価で借りて、
ブックオフに返す。返すといくらか
お金は返ってくる。
あれ、あそこ何って言ってたっけ?
と、一文だけ気になったら、
本屋さんで立ち読みできる。しかも無料。

よし。借りっぱなしの本を返すぞ。
でも、近いうちに読む本はまだ借りておこう。
あの本と、あの本と、あの本は、
とてもだいすきな人の本だから
まだ借りておこう。
まだ読んでない本は、まだ返せないな。
だから、あの本と、あの本と、あの本も
まだ借りておこう。

あ、本たまったまんまだ。

今日の自分と明日の自分は違う。

たまにですが、
今日の自分と、明日の自分は
違う人物だと思うときがあります。
たとえば一ヶ月後の2/28にテストがあったとしたら
「2/28のオレよろしく!」と
なぜか人ごとのように感じてしまうときがあるのです。

人の体をつくってる細胞は一年も経てば
ほとんどが入れ替わるそうです。
ということは一年後に向けて
毎日ちょっとずつ細胞が入れ替わっているということです。
そう思うと、明日の自分は
別の自分に変わっていても不思議じゃない。

仕事をしていると
「この前と言ってることが違うじゃないか!」と
思うときがあるけれど
それはしょーがないのです。

だって、そのときのAさんと、今のAさんは違うのだから。

と思いながら自分を慰めるのでした。

I agree.

説明書。
契約書。
誓約書。
同意書。

ほとんど読みません。
というか、読む気になりません。
正確には、読んでもわかりません。
いけない事だとわかってますが。

あれは読ませるためのものではないのです。
サービスを受ける人のためにあるのではなく、
サービスをする、自分たちを守るために
作られているからです。

なにかトラブルがあったときには、
黄門様の印籠よろしく
ちゃんと書いてありますよと言われれば、
そりゃそうでしょうけども、と
言うしかないわけです。

だからこそ余計に
そういったものこそ
お客目線でつくることが、
本当のサービスなのではないかと。

見えにくい場所ほど目立ちやすい。
そんな時代ですから。

タッチパネル対応型手袋購入直前記。

魔法のようなスマートフォンでも、
タッチパネルは皮膚しか反応しない。
だから、手袋をつけたままでは
電話も、インターネットも、ゲームもできない。

ガラケーなら、手袋でも
問題なく、操作できる。

そんなところをビジネスチャンスとして
生まれたのが、タッチパネル対応型手袋。
手袋をしているのだけど、タッチパネルが反応する。
魔法の手袋。
店頭で手にとって、いや手を入れて
使ってみると、お!ちょっとだけ感動します。

でも、よく考えてみると、
歩きながらケータイをいじると
事故にあうリスクも高まるわけです。
ポケットだって、手をいれる袋。手袋です。

歩く時は、街を観察する時、
考えごとをする時、などと
考えれば、手袋はいらないのです。

買う理由をつけるのも、
買わない理由をつけるのも、
あっさりとしたもの。

バイクに乗るひととかは、
この魔法の手袋、
重宝するんだろうなと思いました。
でも、バイク向けっぽいものは
売られていなかったです。

五感

だいたい人間なんて。
我が儘で、いい加減なものでして。

どこからともなく漂ってくる
おいしそうな匂いに、腹は鳴り、
よだれは湧き出、幸せな気分になる。
そんな経験は、誰でもあると思いますが。

でも、もしそれが電車内での出来事だったら
幸せどころか、あまりいい気はしません。
さらにそのにおいの発生源が
満腹で満足げなどこぞのおっちゃんから
やって来たとわかると、
もはや不快な臭いに感じてしまう。

チーズや納豆など、
いろいろなにおいと紙一重の場合は
とくに警戒が必要で、
自分の判断に自信を持てる場合のみ、
いい匂いだなぁと楽しむ事ができます。
間違っても先走ってはいけません。

別ににおいの事だけでなく。
好きな音楽も、
他所から漏れ聞こえる音では
楽しむ事もできないし、
いい脚だなぁと思い確認したら、
男のものだったとわかった時の
自己嫌悪にも似たくやしさなど
挙げればきりがありません。

五感のどこかを使って楽しむ時、
人はそれ以外の五感に頼っている、
と言えるのかもしれない。