初対面の異性とトイレで並んでいるときの会話集

「トイレが近いって、
 おもしろい表現ですよね」

「え、言いますよ」

「ん、えと、
 用を足す頻度が多いっていうのを
 “近い”っていう表現するってなんだか
 不思議じゃありませんか?」

「え、でも言いますよ」

「う、うん、言うんですよ、
 言うんだけど、その表現がですね、
 トイレが近いって、
 物理的にトイレが近いわけではないじゃないですか。
 それでも“トイレが近い”っていう表現が
 あるとき生まれてここまで定着したっていうのは、
 なんか、こう、すごいっていうような
 気がするんすよねー」

「え、言いませんか?
 “トイレが近い”って」

「いや言いますよ。ぼくも使いますし。
 でも、そう言うようになった歴史っていうか
 背景がおもしろいと思うんですよね
 トイレによく行くとは
 クチに出しずらいから、
 間接的に、ちょっと詩的な表現になったというか、
 いや、あの、べつに
 “トイレが近い”という表現をした
 あなたがおもしろいという意味ではなくて、
 “トイレが近い”という表現それ自体が
 おもしろいということをですね、」

「あ、男子トイレ空きましたよ」

「あ、…はい」

その肘掛けは誰のもの

映画館の座席につけられた
肘掛けは大体足りない。
明らかに個人用のサイズではあるが、
隣の人と共用である。
先に取った者勝ちだといわれても、
腑に落ちない。

わずかな隙間に肘を乗せ、
さりげなく陣地を主張したり、
一瞬のすきを狙って、
一気に領土を占領したり。

譲り合うか、奪い合うか。
ときに映画よりもスリリングな物語が、
小さな肘掛けを巡って
繰り広げられるのである。

なにも映画館の
肘掛けに限った話ではない。
電車の座席の端っこにある、
ドア脇の仕切りは
座っている人のまくらか、
立っている人の背もたれか。

バスの座席の背もたれは、
座っている人のものだろう。
しかし、背もたれの裏の部分は、
後ろに座っている人にとっては
物置きだったり、
テーブルだったりするのだ。

それらはまるでルビンの壺のように
正解があるわけではない。
だから人は、コミュニケーションが
必要なのかもしれない。