2011年08月

それおれ詐欺。

2010年。
いちばん浴びせられた言葉は、
「お前ちょっと黙ってて」です。

2011年。
いちばん浴びせられた言葉は、
「それぜったい言うと思った」です。

相手が何を言うのか予想が当たったときの発言は
だいたい2種類にわけられます。

「それぜったい言うと思った」

「それおれも言おうとした」

です。
ぼくはいずれの言葉も、あまり使いません。
思ったことが、すぐに口に出てしまうからです。

いずれの言葉を浴びせられたときも
じゃあ言えよー。
とも思うのですが、最近気づきました。
言わせてくれているんですよね、みんな。
心のキャパシティの広い方々に感謝する日々です。

※最初のブログを買いてから1年が経ちました。

水着と下着。

水着は恥ずかしくないのに、
下着は恥ずかしい。
男からしてみれば、
なかなかに理解に苦しむ問題だ。

下着と水着はぜんぜんちがう。といわれれば、
そうなのですね。というしかないのだけれど、
「みせブラ」や「みせパン」なるものまで
でてくると、ちょっと事情が変わってくる。

下着だから恥ずかしいのではなく、
見せるようではないから恥ずかしい
ということなのか。
そう考えると、それはそれで、
なかなか奥ゆかしいものだと思うけど。

(じゃあいわゆる勝負下着とやらは
見せるようのものなのだから、
気軽にみせてくれてもいいのではないか。)

逆にいうと、まったく露出とは無関係だけど
恥ずかしいものもあるはずだ。

たとえば、「みせないジャージ」。
大人になっても愛用している
中学や高校時代の学校指定のジャージ。
学生時代の思い出をはるかに凌駕する
毛玉やらほつれやらが満載のその服は、
まったく露出とは無関係だけれども、
その姿を他人に見られたら、
きっと恥ずかしいだろう。

ほかにも、「みせないスウェット」や、
「みせないTシャツ」などもあると思う。

水着と下着。
男は単純な見方しかしないけれども、
なかなか深い話なのかもしれない。

思い出にもスタメンとベンチとベンチ外があるけど。

バスケに燃えていた高校時代。
最後の夏の大会は
一回戦で負けてしまいました。

県大会の準決勝でも決勝でもない
一回戦の試合。

勝っていたって、
その後の人生には
これっぽっちも
関係ないんだろうけど、
でも、ときどき
「あのシュートが入っていればなあ」
なんて思い出します。

いままで過ぎ去った時間のすべてが
思い出になる可能性があると思うんですけど
それでもよく思い起こす思い出がある。

それは、いままで過ごしてきた時間の中で、
熱量のある時間を送っていたときなのかな
なんて思います。

初対面の異性とトイレで並んでいるときの会話集

「トイレが近いって、
 おもしろい表現ですよね」

「え、言いますよ」

「ん、えと、
 用を足す頻度が多いっていうのを
 “近い”っていう表現するってなんだか
 不思議じゃありませんか?」

「え、でも言いますよ」

「う、うん、言うんですよ、
 言うんだけど、その表現がですね、
 トイレが近いって、
 物理的にトイレが近いわけではないじゃないですか。
 それでも“トイレが近い”っていう表現が
 あるとき生まれてここまで定着したっていうのは、
 なんか、こう、すごいっていうような
 気がするんすよねー」

「え、言いませんか?
 “トイレが近い”って」

「いや言いますよ。ぼくも使いますし。
 でも、そう言うようになった歴史っていうか
 背景がおもしろいと思うんですよね
 トイレによく行くとは
 クチに出しずらいから、
 間接的に、ちょっと詩的な表現になったというか、
 いや、あの、べつに
 “トイレが近い”という表現をした
 あなたがおもしろいという意味ではなくて、
 “トイレが近い”という表現それ自体が
 おもしろいということをですね、」

「あ、男子トイレ空きましたよ」

「あ、…はい」

その肘掛けは誰のもの

映画館の座席につけられた
肘掛けは大体足りない。
明らかに個人用のサイズではあるが、
隣の人と共用である。
先に取った者勝ちだといわれても、
腑に落ちない。

わずかな隙間に肘を乗せ、
さりげなく陣地を主張したり、
一瞬のすきを狙って、
一気に領土を占領したり。

譲り合うか、奪い合うか。
ときに映画よりもスリリングな物語が、
小さな肘掛けを巡って
繰り広げられるのである。

なにも映画館の
肘掛けに限った話ではない。
電車の座席の端っこにある、
ドア脇の仕切りは
座っている人のまくらか、
立っている人の背もたれか。

バスの座席の背もたれは、
座っている人のものだろう。
しかし、背もたれの裏の部分は、
後ろに座っている人にとっては
物置きだったり、
テーブルだったりするのだ。

それらはまるでルビンの壺のように
正解があるわけではない。
だから人は、コミュニケーションが
必要なのかもしれない。