2011年02月

きょうは最後の日かもしれない。

いま食べてるポテチが「最後のポテチ」だと思うと、
おいしさと共にいとおしさもわいてくる。
「1枚くれよ」と、横にいる人に言われても
きょうはあげたくないと思うかもしれない。
袋をととのえて、ポテチのカケラたちを流しこむ。
まさに最後のひとくちを食べ終えたとき、
人はいったい何を思うだろうか。

いま入ったコンビニが「最後のコンビニ」だと思うと、
あぁ、お世話になったなーと思う。
いろいろなコンビニがあるけど、
けっきょくここのお店を使うことが多かった。
ポイントカードの有無をいつものようにきかれ、
いつものようにもっていないと意志表示。
まさに最後のお会計を終えたとき、
人はいったい何を思うだろうか。

いま書いてるブログが「最後のブログ」だと思うと、
タイピングする手の動きをヘンに意識してしまう。
日記を書くのは苦手だったが、
ブログを書くのはたのしかった。
ブログのネタをさがして街を歩くと、
街の景色はいっきに変わる。
おおげさに言えば、
世界を変えるのは意識なんだ
と、ブログが教えてくれた。
まさに最後のブログを書き終えたとき、
人はいったい何を思うだろうか。

あしたになったら、きょうを生きることはできない。
だから、きょうは最後の日なのだ。

とか思うと、
ちょっと食べものがおいしくなったり、
ちょっと人にやさしくなれたりするかも。

ケータイは脳の一部

・「何」というネームプレートをつけた店員さんがいた。
もし「ナニ」という呼び方だったら、コミュニケーションが
ちょっと大変そうだ。
(2/21 23:31 @すき家)

・騎手はこの寒さ&あのスピードの中、あんまり服を着てない感じがする。
(2/20 16:36 @府中競馬場)

・「3番に水」ではなく「3番さんに水」と呼ぶ定食屋。
(2/19 19:48 @定食屋)

・仕切られてない分煙なんて、分煙じゃない!
(2/19 12:21 @喫茶店)

これらはぜんぶケータイにメモしていたものです。
忘れっぽい自分の脳みそを
補完してくれるケータイ。
ケータイは、もはやぼくの脳の一部だ。

と言えそうです。

きらい、のち、好きになるでしょう。

雨、きらいです。
寒いの、きらいです。

きらいなものに
きらいなものをあわせると、
もっときらいなものに
なりそうだけど、

雪、になると
ちょっと好きに
なるんですよねぇ。

質問を質問で返されるのには、理由があると思うのです。

「なんで髪きったの?」

「え、前の髪型のほうがよかったですか?」
(髪が伸びたからです…)

「なんでその服着てるの?」

「え、服着てないほうがステキってことですか?」
(買ったからです…)

「なんでその服買ったの?」

「え、もらいものでしかたなく着てるって答えなきゃいけないんですか?」
(着たかったからです…)

「なんで来たの?」

「え、来たらまずいことでもあるんですか?」
(呼ばれたからです…)

「なんでいるの?」

「え、いたらまずいんですか?」
(生まれてきたからです…)

大人になったなぁと思うとき。

えんぴつが、シャープペンになったとき。

筆箱が、布製になったとき。

消しゴムで、いちいち消さなくなったとき。

わさび抜きが、わさびありになったとき。

マジックテープの靴から、ひも靴に変わったとき。

自動車を運転しているとき。

バスの「つぎ降りますボタン」
を人に任せるようになったとき。

母親といっしょに歩けるようになったとき。

ストローを「ぶくぶく」とやらなくなったとき。

腕時計をつけたとき。

切符を買わずに「ピッ!」ってやったとき。

スーパーで買い物をしているとき。

毛が生えてきたとき。

インターネットで買い物をしたとき。

「またねー」が、
「また飲みましょう」に変わったとき。

お年玉をあげるとき。

松葉杖が、機関銃に見えなくなったとき。

長財布を持つようになったとき。

新聞を読んでいるとき。

ATMで暗証番号を入力しているとき。

メールアドレスを取得したとき。

夜、コンビニにいっても、
ワクワクしなくなったとき。

ファーストフードがご馳走じゃなくなったとき。

電話に出て、父親とまちがえられたとき。

うんこ、うんこ、うんこっこー
で、笑えなくなったとき。

雪が降るのに、ワクワクしなくなったとき。

冬が、寒くなったとき。

TSUTAYAの暖簾をくぐるのに、
ドキドキしなくなったとき。

水たまりが乾いたときにできるチョコレートが、
チョコレートに見えなくなったとき。

とんがりコーンを指にささなくなったとき。

ひとりで生きているとき。

ブログをそれとなく短くまとめるとき。